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歩き、出会い、
ことばを紡ぐ。

放送作家、作詞家、ラジオパーソナリティ、作家、放送タレント、司会者、演出家。ひとつの肩書きには収まらない八十三年をたどります。

ストライプのスーツ姿で微笑む永六輔

永 六輔
えい・ろくすけ

生年
1933年4月10日
没年
2016年7月7日(83歳)
生まれ
東京・浅草
育った場所
東京・浅草
主な仕事
放送作家、作詞家、ラジオパーソナリティ、作家
1

1933—1945
東京下町生まれ

子ども時代の記憶
~下町文化と戦争体験

1933年(昭和8年)4月10日、東京・浅草の永住町(現在の台東区元浅草)にある最尊寺の第17世住職・永忠順のもと、6人きょうだいの次男として生まれる。

幼少期は体が弱く、病院で過ごす時間が長かったが、浅草の下町で多くの職人や芸人と触れる機会が多いなかで育ったことは、のちの人生に大きな影響を与えた。

小学校時代はずっと戦時下。高学年になる頃、父と長兄を東京に残し、母と弟妹たちと共に長野県に縁故疎開するが、疎開先の学校では「東京っぽ」と仲間外れにされ、いじめられる日々を過ごす。1945年3月の東京大空襲で父と兄は無事だったが、生家の最尊寺は全焼。

母・登代に抱かれた幼い永六輔
母・登代に抱かれて
2

1946—1958
放送との出会い

ラジオ番組への投稿から
放送の世界へ

1947年、まだ焼け野原の東京に戻り早稲田中学に転入。自分で組み立てた鉱石ラジオで聴いていたNHK「日曜娯楽版」に、14歳でコントを投稿し始めると頻繁に採用されるようになる。それがきっかけで「日曜娯楽版」を作った三木鶏郎氏のもと、学生の頃から放送の世界に入り、早稲田大学時代にはすでにラジオ番組の放送作家として売れっ子に。

台本を書いていた『昨日のつづき』(ラジオ関東)では書くより自分で喋ったほうが早い、と自ら出演。フリートーク番組の先駆けとなった。

若き日の永六輔が街を歩く姿
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1959—1966
歌とテレビ

テレビ草創期と作詞活動

日本におけるテレビジョンには実験放送から関わり、テレビが新しい文化となっていく草創期にNHK「夢であいましょう」をはじめ多くの番組を手掛けていく。

1959年、作曲家・中村八大氏の誘いで初めて作詞をした「黒い花びら」がヒットし、第1回日本レコード大賞を受賞。その後、「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」(第5回レコード大賞受賞)「見上げてごらん夜の星を」など幾多のヒット曲を生み出す。

1963年には「上を向いて歩こう」が日本語歌詞のまま、”SUKIYAKI”というタイトルで、アメリカのビルボードチャート3週連続 No. 1という快挙を成し遂げ、以降、世界中で歌われるスタンダードナンバーとなった。

1964年、”芸”・”芸人”への探究心から、上方芸能を勉強するため大阪に1年間暮らす。

マイクの前で語る若き日の永六輔
本を抱えて街を歩く永六輔

電波の届く先へ

「放送の仕事をするなら、その電波の飛んでいく先に足を運び、そこで見たこと聞いたことを持ち帰って発信しなさい。スタジオでものを考えていてはいけない」
大学時代の恩師、民俗学者の宮本常一氏のこの教えを生涯守り続け、全国・海外への旅を軸として仕事をしていた。
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1967—1990
旅と出会いと

人並外れた好奇心とフットワーク

”旅暮らし”を自称するほど国内外の各地に足を運び、人と繋がり、その経験を軸に活動。

ラジオ「永六輔の誰かとどこかで」(1967〜2013)では旅先で出会った出来事を中心に放送で語り、テレビ「六輔さすらいの旅・遠くへ行きたい」(1970〜71)はその後の旅番組の原点となった。「にほんのうた」シリーズ(作曲・いずみたく氏)では47都道府県の歌を書いている。

講演、町おこし、ボランティア活動などに東奔西走しつつ、放送の現場に戻って発信し続けた。

ロケ先でマイクを持つ永六輔
尺貫法復権運動で曲尺と鯨尺を手に語る永六輔
尺貫法復権運動にて

おかしいことには「おかしい」と言おう

子供の頃の戦争体験の影響もあり、権力や体制に疑問の目を向け、声をあげる”反骨の人”でもあった。代表的なのは「尺貫法復権運動」である。メートル法の施行により尺貫法が禁止され、古来長く使われてきた尺貫法を用いることや曲尺鯨尺の販売が処罰の対象となってしまう状況に疑問を呈し、日本の伝統文化を支える全国の職人たちの仕事が立ち行かなくなることを世の中に広く訴えて、尺貫法の復権に貢献した。
5

1991—2015
言葉を紡ぎ続けて

話す・書く・伝える

放送の仕事と並行して、「書くこと」も人生の中心であり、多くの著作を残している。旅の見聞の中から、独特の感性で語るべき言葉を紡いでいくと同時に、市井の人々の言葉を集めた著書も多い。とくに、「老い」や「死」についての言葉の数々を綴った『大往生』(岩波新書)はベストセラーとなった。

元来、筆まめな性分であったが、若い頃から晩年に至るまで、自分のラジオにハガキを寄せるリスナーには自筆で返事のハガキを書いていた。

22歳の一目惚れから結婚した妻・昌子に2002年に先立たれてからは、亡き妻へのハガキを日記代わりのように書いては自宅住所宛てに投函しつづけた。そのハガキは1800通にものぼる。

羽織姿の永六輔の肖像
永六輔の肖像 / 撮影:篠山紀信
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2016
ペンとマイクと

語り続けた人生

多分野にわたっての活動を繰り広げながら、ライフワークとしていたのはラジオだった。晩年はパーキンソン病を患い、旅に出ることも、往年の”立板に水”の喋りも難しくなったが、80歳を過ぎてなおラジオ・パーソナリティとして多くのリスナーに慕われる存在であった。闘病の末、息をひきとったのは、自身最後の冠番組『六輔七転八倒九十分』が終了した10日後のこと。

2016年7月7日 東京・渋谷の自宅にて死去。
(七夕の日、最愛の妻と14年半ぶりの再会)

ラジオのマイクに向かう晩年の永六輔
ラジオのマイクの前で / 撮影:中井征勝
父・永忠順と並んで道を歩く永六輔
父・永忠順とともに / 撮影:大石芳野

生きるとは

僧侶であった父・永忠順の考え方・生き方から大きな影響を受けている。
生きているということは 誰かに借りを作ること
生きてゆくということは その借りを返してゆくこと
この姿勢が常に根底にある人生だった。

永六輔をめぐる

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